2024年04月27日 19時20分

《歴史 》

道隆寺跡や肝付氏歴史など学ぶ~高山歴史研究会

 令和6年度第2回高山歴史研究会定例会が、令和6年4月20日、肝付町文化会館会議室で開催された。

 同研究会は、2013年5月「肝付歴史茶話会」として発足、2014年11月「高山歴史研究会」として再発足。

 これまで肝付氏の歴史、古代の高山、流鏑馬について、塚崎古墳の見学、平田靭負と高山、自顕流の由来など地域の歴史や伝統について、それぞれの講師が解説してきた。

 この日は道隆寺跡について福谷平さんが解説。

 道隆寺は、鎌倉時代に宋から渡来した禅僧・蘭渓道隆により、1246年(寛元4年)、肝付氏祖先の菩提所として肝付氏第4代兼員が開基。
 禅師は、3年の年月をかけて、唐木の11面観世音を完成し寺堂に安置。
 寺跡には、肝付氏ゆかりの数多くの石塔や、島津氏六代氏久と七代光久の逆修供養塔が出土している。

 道隆禅師はその後、北条時頼に請われて鎌倉に上り、その7年後に巨福山建長寺を創建したと伝えられている。

 本堂などがあった場所は水田になっているが、林の中には観音堂跡があり、仁王像、ヤグラに刻まれた磨崖五輪塔、宝塔、経塚、六地蔵塔、無縫塔(むほうとう)、灯龍や鎌倉時代から戦国時代に至る数多くの五輪塔が古い歴史を物語っている。秋には紅葉がきれい。入場無料、町指定文化財。

 福谷さんは、町職員時代、25歳の時に仕事で志布志に出向き、志布志のまちを散策しているうちに大慈寺境内に入り、そこで和尚から声を掛けられ、道隆寺の話になった途端、驚かれ本堂に招かれ、寺宝や県指定の文化財など見せてもらい、道隆寺がかって大慈寺の末寺であった事などの関りを話してもらったという。

 和尚の話を聞いて今までに持っていた道隆寺に対する認識が一変。この事が道隆寺跡の発掘復元に係わる原点になったという。

 そして42歳から、毎週土・日・祭日になると、朝から現場に向かい夕方遅くまで孟宗竹を伐採、地ならしし発掘を進め、退職後も南九州古石塔研究会の隈元信一氏の助言を得ながら毎日のように現場通い、結局、復元した五輪塔は合計百四十六基にもなった。

 平成22年2月には道隆師が開山した鎌倉の建長寺、240世の吉田正道管長ら同寺の僧侶十二人が「蘭渓道隆の遺跡を慰霊したい」と復元された道隆寺跡を訪れ、供養されたという。

写真=福谷氏が道隆寺跡について講話

 福谷氏は「何か一生懸命やってれば、誰かが見てくれ、道を開いてくれる。人から見ればいいこと悪いことあると思うが、40年近くお寺跡の整備に関わっていいて、何の得をしたこともありません、供養ですから、供養は心です。
 
 廃仏毀釈では、徹底的にやったのは薩摩藩、蘭渓道隆が11面体観世音を3年かけ完成させた、そんなものは今何もない、あれば国宝級ですよ。

 ただ、600年、700年前のことであり、肝付氏の家来でもなんでもなかったわけですけど、物言わない五輪塔を1基、2基と復元していけば、その人たちの思いがよみがえる。
 そうするとまた、もう1基復元したいという気持ちになる。供養に限りはありません。

 人間はね、どっさい損をするといけませんが、ちっとそっと損をして生きたほうがいいような気がします。それで誰かが喜んでいる。
 
 なんかやると思ったら、人の噂とかに折れないことです。信じたらやる。それがいいような気がします。
 ただ、私ももう82歳になって、ようこそ40代でこれをはじめてよかったと思っている。」など語った。

写真=90歳の海ヶ倉喜通さんが肝付氏、萩原家について談話

 歴史談話として、海ヶ倉喜通さんが、肝付氏、特に分家の萩原氏の歴史、他の分家は地名からとった安楽氏や梅北氏などなのに萩原氏はそれがわからず、有明、志布志、岩川や加治木、喜入などいろんなところや人に聞いて歩いたこと。

 宮崎県三股町に流れる萩原川があり、そこも訪ねていった、鹿屋市王子町に、今は形がないが萩原場があったことを突き止めた…なども話し、90歳になって今後も、この会に参加していきたい…など語っていた。

 来月は20日(日)に、福谷平さんを講師に、高山城跡での現地研修を観光協会のガイド部会と合同で行う予定となっている。

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