2024年09月28日 19時35分

《雑草 》

青春時代の楽しいオート三輪車に有難う

 昭和29年に1月13日に16歳の誕生日が来るのが1日千秋の思いで待ちどうしかった。それは自動3輪車の免許が取れるからであるので5月の初めに、鹿屋農高の前に当時の自動車運転試験場があった。

 自動3輪・小型四輪・普通車の試験があり鹿児島から試験官が来て実技試験があった。
 コ―スは土と砂利を踏み固めたもので脱輪すると路肩が崩れるので、その都度補修する試験コースであった。

 試験車は三輪車でマツダの角ハンドル単気筒のキャビンは剝き出しの車であったが、セルモーターは無くキックペタルを踏んでエンジン始動で、下手をするとケッチンを食らい踏み外すと足を痛める者をいた。

 要するに左手はシート傍の握りを支えに右手はアクセルを握り調整する、力を入れて一気に踏み込む事であった。試験官はベテランでもたもたしてると直ぐエンジンかけ付けてくれた。減点対象になったのではなかろうか。

 普通車の試験車はダッジか、フオードのピッグアップ車でロングノーズの窓は小さくその上掛け損なうと、スターチング・ハンドルで加勢しなければならないので、次の受験者はスターチングハンドルを担いでコースを回らなければならなかった。

 私は受けなかったが難しそうであった。試験官はデモ運転は上手で試験官への心証を良くして、試験車の癖をそれとなく教えてけれたと言う。
 三輪車の試験車は乗りやすく小高く土を盛り上げた坂の途中で止まり、坂中のスタートでエンストする者は多かった。
 高校機械科には試験車と同型のマツダで坂中スタート問題なく一発で合格した。試験官曰く大分無免許で乗ったねと言われたが、その頃は自動車教習所は無く広場や道路が練習場であり長閑なものだった。

悪路で過積載運転は難しかった


 昭和30年頃から自動三輪車トラックが増えだし悪路であったり道路はアスファルトでなく、砂利道でグレーダが凸凹道を定期的に補修して積載も運転技量と車の許す範囲内で荷を積み過積載には強く、2t車に2t半や3t近く荷を積んだ過積載運転は難しかった。

 キャビンは無く真ん中の運転手の左に折畳式の補助席が天蓋はテント式で前のガラスがあるのは手動式であった。やがて2t車にもキャビン付や全面ガラス電動ワイパーに方向指示器も手動式から自動式に変わり、キャビン付で丸ハンドルに変わり3人乗りに変わって行く。

 石造りの眼鏡橋はオート三輪車の2tトラックの車が過積載して通行するのは日常茶飯事であったが、今考えるとぞっとする強固な造りだったと思い出すがオート三輪車のメーカーもマツダ・ダイハツ・くろがね・あきつ・みずしま・ジャイアント・オリエント・と頑丈で小回りが利いたが、道路事情が良くなり安定性の重視して四輪車に変わって行った。

  マツダとダイハツが1960年半ばまで最後まで残って、あとは皆撤退したが三井精機のオリエントは(1947・昭和22年から昭和36年まで続けた)日野自動車が垢抜けしたデザインと車作の執念に魅力を感じたのか引き入れた、スタイルの良さは今の日野自動車にも片鱗を見る事が出来る。

 みずしまは三菱系列で流石に三菱自動車が小型四輪車に進化している。
 戦後日本の経済産業発展の過程に道路事情も良くなってくる、安全性や道路事情も良くなりオート三輪車も必然的に安定性のある四輪車に変わり運転席も居住性を重視され四輪車の時代になる。

 くろがねは日本内燃機「ニユーエラー」オオタ自動車工業と合併し東急くろがね工業となり東急グループに入る、
 ジャイアント号は愛知企業が引き入れて、あきつ・はダイハツ工業に合併される。

僅かな期間だったがモータリーゼイション発展に寄与

 現在はダイハツはトヨタ自動車傘下に入り安定している。マツダだけは独自の技術力で現在も独自に頑張り現在水素エンジンの開発実用化すると言う。

 殆どの三輪車メーカーは合併するか吸収されて、日本の高度成長期に貢献したオート三輪車は僅かな期間だったがモータリゼイションの発展に寄与した懐かしい車だった。

 特色の魅力あるオート三輪メーカーは其々に収まる処に特色で生き続けている。東南アジア地域では小回りが効き交通が煩雑している都会ではタクシーの代わりに、レンタルで地域限定の電動三輪車が利用される時代が来るかもしれない。

 とにかく私には青春時代に体験できた頼もしく勉強になった楽しいオート三輪車だった。有難うと賛辞を述べたい。(岩重20240928)

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