2024年02月10日 09時23分

《雑草 》

縁起が効いた二十三夜市の代々親からの申し伝え

 宮崎の太鼓集団・響座による能登半島地震災害へのチャリティー演奏会が、宮崎市で催されたことを先日知った。
 多くの観衆が響座の力強い太鼓演奏に能登の人達に心温まる声援をして、老若男女が心尽しの募金をしたと言う。

 まだコロナ禍が始まる前、鹿屋市串良町の二十三夜市で演奏を聞いた事がある。
 プロデュースしたのは鹿屋市の星歌謡教室が行って、久し振りに迫力ある強弱自在変幻の太鼓演奏に感激し、星歌謡教室主宰者の川路氏に「素晴らしい太鼓演奏だった」と語った事を思い出す。

 その当時は響座を二十三夜市に良く、来て貰えたなとお礼を言った。
 今は人気も上昇して野外演奏に来て貰えたな、貴方の力量ですよと言うと今迄のお付き合いからと謙遜した。
 川路さんの出身地だから無理を言って来て貰ったのだろう。今迄プロデュースした芸能人は殆どが大成しているのは、貴方に先見の目が有るからだろうと感心している。

 改めて私が言うまでもないが、大隅路に春の訪れを告げる二十三夜市には、此処串良町界隈の近郷近在に住む人々は此の祭りが済まなければ、新年を迎えた気に成らないと言うのを聞いた事がある。

 私も以前は妻の母親と一緒に市に来て竹籠やしょけ(生活用品)買い求めるに時に値切るのを何度か目にした事がある。
 年老いた職人が丹精込めて作ったものを値切らんでよかがと言うと、阿吽の呼吸でよかど少しは安くすると値引いてくれた。
 丁々発止の掛け声の如く見事な商いを見守った。
 以前は良くあちこちで鎌や鍬の買う時に値引きの、やり取りを聞いた事があったが、最近は聞かなくなった。
 値引きをして貰った品物は縁起が良く長持ちした。売手の人は此処ぞとばかりに別な物も売り付け、商いの習わしが伝承されているのである。時代の変遷で市の出し物や商品は生活の様式が変わり、大分替わって来ているが新しいスタイルになって来ている。
 カンパチの解体ショーなど目新しい売り方に替わったりして、新鮮な捌いた刺身を試食させ、美味しそうな部位だったので瞬く間に売り切れ、何本かを捌いて完売する手法に変わった。

由緒ある歴史に支えられる二十三夜市を盛り挙げて

 基本的には出品件数が減ったが売上高は向上している。手作業の職人が創る農機具や昔ながらの刃物類は、此処で買った物は良く切れるし、切れなくなれば研げば元に蘇る。何処かが違うから、毎年この市を待っており又お会いできるのだろう。
 竹細工物など長持ちがすると言って、評判はとても良かったと買った客が言う。鍛冶屋が少なくなったが職人が手製の品物が手に入る二十三夜市ならではの商いで、この様な市は生き残って欲しいものだ。

 処で故人になった義母の口癖で言うには、縁起物の買い物で値引きして貰った事は向こう1年間は願いが叶えると、代々親からの申し伝えがあって二十三夜市に活性化を来す為に、先人達が活性化の為に伝承学として残したのだろう。

 親類の子が、鹿屋高校から鹿児島大学歯学部に行きたいと言う。入学するには鶴丸か甲南高校でないと浪人覚悟でないと無理と言われたのを、毎年二十三夜市で買い物をして値引きして貰ったから良かったのだと、義母が息巻いて居た事を思い出す。

 留年せず大学院まで行き開業で来たのは、二十三夜市の縁起も効いたのだと、誇らしげに語るのを誰も反論しなかった。良い事だから義母には有難うと皆が言うのを眺め、確かに運は自らに運び込まなければ成らない事も皆が学んだ。

 二十三夜市は江戸時代の後期の天保年間から旧暦の12月23日に、正月用品の物々交換の場として始まったと言われる。戦後は一時途絶えた時期があったが、1952年(昭和27年)に毎年1月末に開催され、春の訪れ告げる大隅路の風物詩となっていた。

 以前は植木市や陶器市が人気があったが、今は音楽や太鼓の演奏・歌謡ショ-などで盛り上げている。由緒ある歴史に支えられる二十三夜市である皆で更に盛り上げて行こう。(岩重20240210)

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