2025年08月15日 21時33分

《政治・行政 》

鹿屋に川端文学碑を!~生命の谺を聞く 川端康成と特攻

 戦後80年事業「生命の谺(こだま)を聞く~川端康成と特攻~」が、令和7年8月3日、リナシティかのや3階ホールで開催された。

 川端康成の特攻体験に関する講演会、「生命の谺(こだま)を聞く~川端康成と特攻~」は、講師の多胡吉郎氏が、川端康成が1945年4月から5月にかけて海軍報道班員として鹿屋特攻基地に滞在していたことを知り、著書を出版、その内容を中心に講演したもの。


 多胡氏は、1980年東京大学文学部国文学科卒業後、NHKに入局。文化、教養系の多くのドキュメンタリーを手がける。2002年に独立し、イギリスを拠点に文筆の道に入る。
 2009年に帰国し、活動拠点を日本に移す。

 講演では、川端康成が海軍報道班員として鹿屋基地に滞在していたことが」ほとんど知られていないこと。

 川端の作品の中の抱えた哀しみの根に「特攻」体験がどう関わるのか、川端の特攻に関わる文章、そして、川端が鹿屋基地にいたときに飛び立っていった特攻隊員172人の中で川端と会ったとされる数人の遺書等を紹介し、川端康成を通して特攻を考える機会としての講演の内容となった。

 1965年の随筆水郷では、「敗戦の年の春、40日ほど私は海軍報道班員として、大隅半島鹿屋の特攻隊基地に従軍したことがあった。山岡荘八氏らが同行であった。もはや海軍に軍艦はなく、飛行機を航空艦隊と、苦しい呼び方をしていた。沖縄戦のさなかであった。鹿屋が最前線であった。特攻隊員は飛立てば、爆弾を抱いて、機体もろとも敵艦に突入、体あたりするので、大方は生きてかえらない。
 その隊員には、学徒出陣と少年航空兵とがあった。学徒は大学と高等学校の学生で、同じく特攻隊を志願した、あるいは志願させられたにしろ、少年航空兵とはおのずからちがっていた。派手な色のマフラーを首に巻き、風になびかせていたりしたのは、少年航空兵であった。これらの少年たちの方が、死におもむく思いも、おそらく単刀直入であり得ただろう。しかし、特攻隊員に変りない。朝にタベに、あるいは夜なかに、私たちは特攻隊の還らぬ出撃を見送ったものだ。」などを紹介。

 短編小説「生命の樹」や、長編小説『虹いくたび』。
 川端があった特攻兵、市島保男少尉(23歳)、森丘哲四郎少尉(23歳)の手記等も紹介。

 最後に、死の淵から帰遠し「生きよ」と綴った川端。
 特攻から、生命の樹へ。川端の眼差しの確かさ、文学の力。
 ある高僧の日く「花びらは散れども、花は死なず。」
 川端の「死の記憶を生へと転化し、未来に向けたメッセージ、「生きよ、生きよ、真に生きよ。」…などとして「鹿屋に川端文学碑を!」をメッセージとして残した

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