2024年03月20日 23時46分

《戦争と平和 》

花岡に爆弾が落ちたあの日、3・18鹿屋初空襲に寄せて

 第5回3・18あの日を忘れない「花岡に爆弾が落ちたあの日」が、令和6年3月16日、花岡地区公民館で開催され、空襲の絵本朗読、解説講話、花岡空襲体験者との対談があり、小学生3人も参加、鹿屋初空襲の3月18日を語り継ぐ平和について改めて考える時間となった。

写真=花岡空襲体験者、宮迫ヨシ子さん、妹尾忠志さんとの対談

 昭和20年3月18日、鹿屋市は初めて空襲に見舞われ、大きな被害が出たその事実をしっかりと認識し、平和について考えてみませんか…と毎年開催されている。

 これまで米軍の金浜海岸上陸、第5航空艦隊司令壕が残っていることの意義、米公文書館所蔵映像の解析などについての報告や検証があった。

 主催は、鹿屋市平和学習ガイド。

写真=鹿屋市平和学習ガイドの迫さんがあいさつ

 今回は、同ガイドの迫睦子さんによる「空襲の絵本朗読」、小手川清隆さんによる「どうして花岡はねらわれたのか?」の解説講話があった。

 小手川さんは、笠之原では70戸、高須では40戸、花岡では33戸と被害。大空襲があったなかで、高須は飛行場の近く、笠之原にも飛行場があったわけで、なぜ花岡でも空襲があったのかは、終戦前は13ミリ機銃、軍用自家発電所、小学校には陸軍の野戦病院、役場には軍需工場、松根油を作る工場などがあった。海の上の航空母艦からグラマンが飛んできた。

 それは沖縄を米軍が攻めるから、その前に本土で空襲、3月18日には九州、19日は山口方面であった。
 

写真=小手川清隆さんによる「どうして花岡はねらわれたのか?」の解説講話

 沖縄が陥落し米軍基地が10個くらいできて、そこから速く軽く攻撃能力あるムスタングがくる。サイパンとかが陥落したあとはB29が来るようになる。6月19日の鹿児島大空襲もそうで、無差別爆撃が始まった。

 8月5日の正午過ぎ花岡の空襲、そのあとは垂水方面に飛んでいった。垂水には海軍航空隊があったが、369トンの爆弾落とされ垂水は2000戸くらいの被害があった。

 当時米軍は垂水に飛行機の生産場所があるそういう情報が入ってそれを誤解して垂水を攻撃した。
 花岡はその垂水大空襲の一部が飛んできたのではと思われる…など話した。

 原田雅子さんのコーディネーターによる、花岡空襲体験者、宮迫ヨシ子さん、妹尾忠志さんとの対談、前田文夫さんによるビデオメッセージがあった。

 妹尾さんは昭和9年生まれ、戦争が始まったのは鶴羽小に入ったときで、生活は戦争一色、遊びもみんなが集まって戦争のまねをして遊んでいた。

 正月ですかね最初、高いところにB29の機体がきらきら光って偵察にきて、空襲に来たのが3月上旬だったか、アメリカのグラマンがきて、古江の海岸の海の上で日本の飛行機と空中戦、日本の飛行機は2枚羽の黄色い練習機で、屋根に上って見ていた。

 そのあと機銃掃射があり、当時は藁屋根で、火を吹く玉も打たれ火事になった。それを兄貴などが消しに行った…など語った。

 宮迫さんも昭和9年生まれ、戦争の時は10歳、いろいろな経験をし今思い出せば涙が出るくらいです。

 鶴羽小には兵隊さんの三角兵舎が4つあって、みんなそこで遊んだり、稲荷神社で遊んだりしていた。空襲があってサイレンが鳴ったときは、みんな防空頭巾をかぶり防空壕に入って、畑に行っていた親は、弾が当たらんかったやろかい、防空号に入ったやろかいと走って帰ってきて、泣きながら防空壕に居ました。

 ちょっとしたら小学校の近くに爆弾が落ちたよと、父は消防に行って、子どもたちが見に行くと、ここは子どもたちが来るところじゃない…と言われました…など語った。

写真=平和へのメッセージで思い伝える

 また、参加者一人ひとりが、メッセージを書いてボードに貼り、平和への思いを伝えた。
 そこには、「若い人たちや子どもたちが安心して暮らせる『平和』を何としても守らなければ…と思いました。私にできることを考えて行動します。」「戦跡の保存活動を射ましょう。」などがメッセージとして書かれていた。

 主催の鹿屋市平和学習ガイドでは、戦時中の写真等お持ちでないですか?鹿屋市では、戦争当時の写真や資料などを収集しています。企画展等で展示させていただきたいと思っています。お持ちの方やお持ちの方を知っているという方は、ぜひ、ご協力をよろしくお願いします…と呼び掛けている。

 問い合わせは、ふるさとPR課
電話:0994-31-1121 FAX:0994-40-8688
E-mail:furusato-pr@e-kanoya.net

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