2024年08月10日 18時52分

《雑草 》

古代史の謎、空白の3世紀末より5世紀を南九州で解く

 古代史で鹿屋市打馬町の打馬について、意味深な解釈があると初めて知った。
 馬の脚の爪を成形した蹄鉄を合わせ装着する職人たちが、武士達も含め住まわせた集落を打馬町といったのだろうとばかり思っていた。

 馬は交通に欠かせない時代があった動物で人馬一体と言われた、良い馬を多く持っていた者ほど力と財力を持ったシンボルでもあった。使役に馬を使い乗馬や戦争にも昔は使われたが、古代史による打馬とはやや広い谷、狭長な谷の間の空間を示す接尾語であり、ここで言う打馬は地形の形状を指している。「南九州古代前史の謎を解く」(松下高明著より)。

 私の知人が小学生の子を連れ吉野ケ里遺跡に行こうか、上野原遺跡とどちらが良いのかと私に聴いてきたが、吉野ケ里遺跡公園は国営で広く多くの施設が整っており、楽しむんだったら国定公園の吉野ヶ里公園が良いと思う。
 歴史の勉強を兼ねて古代史入門は近いし日帰りも出来る、近くには温泉もあるので泊りがけで行けばゆっくり出来る。吉野ケ里は縄文から弥生期まで施設が多いから、中学生になってからが良いのではないかとアドバイスをした。

 どちらかと言えば上野原遺跡を親と一諸に地元の古代史を知って欲しかった。
 上野原遺跡は縄文時代8500年前の定住集落が発掘され、今までは東日本に多く発掘されたがそれらを覆す元になった。公益財団法人鹿児島県文化振興財団が管理する歴史公園になっており「鹿児島県上野原縄文の森と言われる」。

 薩摩半島や湾奥の霧島方面に古代遺跡が大隅半島に比し、少ないのは火山が関係したからで在ろう。
 上野原遺跡が古代に栄え3世紀に忽然っと消えているのは、すぐ傍の福山の宮浦宮から神武天皇船出の痕跡が関係している。
 以前は福山港地域に船乗り衆が多かった話を聞く。神武天皇船団が迎えに行き佐多岬を回り船間・内ノ浦を通り柏原で船団を再編成し、神武天皇東遷船団は串間で仲間と合流し美々津に寄港し、西都原から来る軍団と合流し豊後水道西陸沿いに瀬戸内海沿岸を寄港し大きな船団になる、天皇が先頭に立てば影響力があり周辺の豪族はこぞって馳せ参じたと言う。

 柏原は神武東遷に際し準備万端しており大きな船は串間地方で船材が豊富でこの地で用達し、日向の軍団と豊後の船団も合流し瀬戸内海の本州沿岸沿いを進み、吉備地方は滞在し神武天皇東遷軍団を補充して一大勢力にした。
 大和地方に付くまでに強力な東征軍団でなければならない、武器等も新たに備え東征軍は強力な軍団になっていた。

神武東征軍は強力な勢力で大和地方を席巻

 さて朝貢の記録266年11月に倭国の産物を献上したのを最後に途絶えているので、倭国では騒乱が起きてその後150年間の記録はない。
 次に記録を見るのは413年で約150年間何もなかったのが、421年425年430年と438年と頻繁に送られ送り主ははっきりせず。
 この時代になると耶馬台国は無く大和朝廷になってから短期間に勢力を広げ財力などをも蓄え強大になったと言える。
 それから伺える神武東征軍は強力な勢力で大和地方を席巻したのである。この150年間の空白に神武東征群は奈良地方に移動して、近辺諸国を制圧して安定した政権を確立した時代だったのだろう。
 卑弥呼は景初年になってすぐ、魏志に朝貢して返礼として銅鏡100枚を貰ったのである。然しすでに銅鏡だけは多く貰っており倭国で複製したのかは謎である。銅鏡は研きさえすれば何時でも顔を映す鏡になる貴重品である。

 卑弥呼が266年に死んでおり王が男になったが,騒乱が起き台与が女王になり収まったと言うが此処では資料が少なく割愛する。
 私は古代史好き人間で上野原遺跡が県営で、立派な古代遺跡に整備されている。空港に行く途中にあり今迄で何回か行ったことがあり、栄えた時代の流れの中に居住地が跡形もなく無くなった。

 その意味も古代史好きの私はすぐ下の福山港上に宮浦宮神社があり、神武天皇東征の出航記念碑と銀杏の大木が2本ある。
 それで此処から周辺住民も一緒に柏原に終結したのだろうと推測がついた。
 柏原河口は今も残るが川幅は広く昔は蛇行しており三日月湖となって名残を残しており台風等には格好の避難湖でなっていたと思う。

日本の古代史を自分流に考察するのも良いではないか

 気になるのが打馬町の西側台地に約60年前頃円墳が10数基あったと思うが、時を経てその周辺に通ずる道沿いに石灯篭を千基近く建て平和公園にするんだと話を聞いた事がある。
 何時の間にか立ち消えになってしまい円墳は何処に行ったか不明だ。古代の墳墓は住居より離れた処に造るのであったので唐人古墳と、それを取り巻く墳墓は人里より離れて造られた。

 南九州の古代史の歴史に興味を覚え柏原から東遷した神武天皇の船団が大和地方に南九州に栄えた集団が移住したと漠然と思っていた。
 処が時を経て神武天皇東遷軍団は大和地方に永住する意識は早く持ち、気候温暖な処だが火山や台風等の常襲に悩まされ、人的交流から大和地方の集団移動を持っていて、卑弥呼がこの地方に影響力を持っていたが、亡くなり時代が変わり相当な用意周到の計画を立て目的地に着くまでに、無駄な戦闘をせず目的を果たす大きな勢力で東征した方が効果的だと、太閤秀吉式戦法で実行したと思う。(紀元前660年の天皇歴史観は如何にでもなる)

 途中で滞留しながら強力な無敵神武天皇東遷軍団は大和地方に橋頭保を築き、確固たる王朝を築き上げた。だから各地に伝説を多く生み天皇制絶対主義が功を奏したのだろう。

 南九州説の邪馬台国論を含め神武東遷を成就して大和王朝が成立した。西暦200年の末期より150年間の空白の歴史は、日本の古代史を自分流に考察するのも良いではないか。

 いや違うその歴史はこうだと言う歴史家はいない筈だ、河野俊章氏著の力作を楽しく拝読したが、南九州説を強力にアピールしてこの地を伝承の卑弥呼の郷にしても良いではないか。

 古代史の謎は空白の3世紀末より5世紀にかけて約150年間あり、邪馬台国南九州説・神武東遷説はロマンがあって良いではないか。厳然とした埋蔵物発掘調査で続々証明されている観光誘致に勿体ない。(岩重20240810)

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