2024年08月15日 07時05分

《雑草 》

戦争と平和について改めて家族や周りと語る日に

 前回(前日)に続いての内容。
 自衛目的で敵のミサイル発射拠点などを破壊する反撃能力の保有を明記した国家安全保障戦略など閣議決定された3文書の概要については、この雑草で4月から5月にかけて数回、書いた。

 そこでは、司馬遼太郎著の「この国のかたち」のことにも触れた。

 平成からの30数年で、この国のかたちが大きく変わり、一昨年閣議決定されたこの国家安全保障戦略、国家防衛戦略、防衛力整備計画の3文書で、変容するこの国のかたちの概要が明らかにされた。

 もちろん、海自鹿屋基地も、沖縄だけでなく九州が防衛力強化の最前線に立たされ、周辺で有事が起きた場合の即応体制強化の役割を担い、万が一我が国への侵攻が生起した場合を想定し強化されることになる。

 空中給油機訓練や米軍無人機の一時展開、そして試験飛行があり、そうしたことも含め、防衛力整備計画では、格納庫や倉庫、整備場など12棟を建て替え、隊舎や史料館など9棟を改修、総額500~700億円規模、工期は最長で6年程度を見込み、2024年度予算で警備関連施設の整備などに50億円を計上という。

 鹿屋市議会では、地元経済のため地元業者への発注をという質問もあったが、この国のかたちが大きく変わる中で、さつま町の弾薬庫は大規模な拠点を視野に構想され、奄美の火薬庫施設建設など、馬毛島等も含め南九州の役割が拡大していく。

究極的には国民にある民主主義的統制

 これまでこの欄で書いたことと重複するが、その決定は閣議という手法によるものが多く、国会も通さず、国民が知ることもなく決められ、後で知ることになる、この国の最重要事項。

 そこにはシビリアンコントロール、文民統制、つまり民主主義国における軍事に対する政治優先または軍事力に対する民主主義的統制は存在しないのか。

 主権者である国民が選挙で選出した国民の代表を通じて、軍事に対して最終的判断・決定権を持つという国家安全保障政策における民主主義の基本原則であり、シビリアンコントロールの主体は立法府、そして究極的には国民にあるはずだが。

 なぜ、こうしたことを考えるのかというと、2つの世界大戦の歴史を振り返り、ナチスドイツの手法や、真珠湾攻撃を決める過程では、強力な指導者や軍部が主導権を握りながら、例えばオリンピックを活用したプロパガンダ、映画やマスコミのニュースが戦争宣伝に利用され、戦中の不利な情勢もすり替えられ国民が扇動されていく。

 そこには本当の意味での民主主義的統制はない。

マスコミ、報道が大きな役割をもっている

 だからこそシビリアンコントロール、文民統制が言われるのだが、今の日本を見ていると、立法府や国民が蚊帳の外であり、司馬遼太郎の中の「この国のかたち」で投げかけられている疑問が今、そのまま投影され、繰り返されていくような、そうした危うい歴史的瞬間に私たちは生きているのだろうか…とも考えたりする。

 もし今、司馬遼太郎がいたとしたら、どんなことを書くのだろうか。

 そしてそこには、マスコミ、報道が大きな危うい役割をもっているという事実があり、加えて前回の大戦時にはないSNSという強力な媒体が存在する。

 選挙戦術の一つの大きな力にとなり脅威を感じるが、アメリカ大統領選の手法を見ながら、選挙は盛り上がったとしても、それでは争点となる事実、真実は見えにくい、というより見えてこないのか。

 これに、マスコミ、報道が戦争のプロパガンダとして利用されこれが繰り返され、SNSと相まって文民統制もなし崩し的になる…、そう思うとこんな小難しいことをも書かざるを得なくなる。

国は自己を正当化し続け、高揚させ自らを強化していく

 私たちは、先の大戦を経験して、強力な指導者・軍部と、マスコミ・報道による「進め一億火の玉だ」のような扇動と、それを鵜吞みにしてしまう群集心理と、その3つが重なり合い、戦争へ突入していくその歴史を学んでいる。

 さらにいったん戦争が始まってしまうと、ロシアーウクライナのように、自分たちの力で終わらせることはとても困難になり、戦争の泥沼、一般市民が被害者になっていく構図を、現実に見ている。

 現実にこの30年来、この後も今の政権がアクセルを踏み続けていくとしたら、本当は国民の代表たる国会が、ブレーキを掛けながら、そこのバランスを取っていくべきなのだろうが期待薄であり、究極的には国民が判断しなければならない。

 マスコミ・報道が再びアクセルとなってしまうのか、国民にブレーキを掛けるタイミングを教えてくれるのか、今は分からない。

 ただ、多数派が少数派を飲み込んでしまう全体主義、与野党のバランス悪くややもすると独裁体制のような今の社会を若者は敏感に感じているからこそ、政治に参加する意欲を失い、選挙の投票率も低くなっているのだろうか。

 戦争もその選択の仕方によって政治の延長の一つでもある。
 今の世界の潮流、世相からして日本だけでなく、国という存在は、自己を正当化し続け、仮想敵国を創り上げ高揚させ自らを強化していく。

 くどいようだが、ここにマスコミ・報道が食いつき、そこを国民が肯定していくのか、最終的には国民の判断だ。
 
 大衆として多数、全体の中に組み込まれ、または評論家のように振舞うのか。

 関連する法律も改正され、政権の中枢が向かおうとする先が見えてきた中、戦争が風化され、ここ100年前後にあった日本の歴史を繰り返すような選択をするのか。

 日本国民としてのターニングポイントとなる大事な時だと思う。この雑草を読みながらでも、戦後79年の終戦記念日を、戦争と平和について改めて家族や周りと語る日にしてもらいたい。(米永20240815)

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