2024年08月14日 18時06分

《雑草 》

戦争の現実と自衛隊の変容~難しい選択の中で考える憲法

 前回は、第二次世界大戦開戦のことについて広島原爆の日に書いた。

 これだけの戦争や紛争を経験しても、無くなることのない地球上の争いごと。人々、国々が様々な権益を求めて競い合い争う。

 ただ、どうして、何故、前回の戦争が起こってしまったのか、その歴史をたどっていくことで、人として国として学ぶことがあると思うし、そこからよりよい未来を切り拓いていけると信じているからだ。

 それは、焦土化したこの国が敗戦後79年経ち、特に戦後50年を過ぎ、平成の30年間で、専守防衛から集団的自衛権など自衛隊そのものが大きく変容したと思っているからなおさら。

写真=外務省HPから

 例えば能登半島沖不審船事件で、自衛隊創設以来初めての海上警備行動を発令し爆弾投下などで対処。

 そしてソマリア沖海賊の対処活動、さらにイラクへの派遣では、戦争が続いているが戦闘が起きていない「非戦闘地域」もある、そこならば自衛隊が戦闘に巻き込まれることはないというロジックで派遣された。しかし現実は、自衛隊の宿営地にロケット弾や迫撃砲弾が撃ち込まれたりする現場だった。

 南スーダンでは、国連PKO部隊も戦闘に巻き込まれ、中国兵など2名が死亡、自衛隊宿営地の近傍でも激しい戦闘が発生し、宿営地内にも流れ弾が多数着弾したが、当時そうした事実は隠蔽され、私たち国民には知らされなかった。

 東ティモールでは、自衛隊と同じ管轄のニュージーランドパトロール隊が武装組織と遭遇し交戦状態になり、若い兵士が耳も削そがれ首も切られた惨殺死体で発見されたという。

 コンゴでは、PKO部隊への襲撃によって隊員14人が殺害され、PKOでの犠牲者総数は2500人近くになるという。

紛争の当事者としての日本に

 この平成の30年前後で、自衛隊は戦闘地域に派遣されるということが現実になり、それは「紛争の当事者」として行動、交戦することが前提となり、それは単に自衛隊だけの問題ではなく、その域を越え「日本」という国が「紛争の当事者」となりえる現実に直面するということにもなる。

 そうしたことを私たち国民はちゃんと認識しているのだろうか。

 それは専守防衛という則を超えて自衛隊が変容し、憲法9条の解釈をも大きく変えてしまった。

 これがどういうことなのか、巷間ではあまり議論されていない。

国民の自由や権利守り国家権力を制限する憲法

 危惧されるのが、少し前に憲法改正の賛否をという世論調査の結果である。
 今、憲法9条を改正することなく、これまでの解釈を超えて、交戦することを前提とした戦闘地域に派遣、派兵。それがどういうことを意味するのか考えてみる。

 難しい話になるが、少し憲法についての歴史を加えて考えてみる。
 イングランド国王の権限を制限したことで憲法史の草分けとなったマグナカルタ。国民の自由や権利を侵害しないように国家権力を制限する法が憲法といわれている。

  しかし、この日本という国は、PKO協力法、周辺事態法、対テロ特別措置法、現実に憲法改正を行うことなく憲法解釈を変更する閣議決定。
 そして安保法制11法案の閣議決定を行い自衛隊法などを改正。さらに自衛目的で敵のミサイル発射拠点などを破壊する反撃能力の保有を明記した国家安全保障戦略などの3文書も閣議決定した。

 現実を見ると戦争、紛争、テロ、領海領空侵犯などがあるからこそというのもあるが、合憲性を基礎づけようとする論理が欠如、破綻していると言われる中で着々と進められてきた。

戦後昭和と平成以降とでは大きく変容

 そうした機運を背景に、今度は憲法改正をという。

 ちょっと待ってくれ…と声高に言いたいのは次のことだ。
 この平成からの30数年で、この国のかたちを大きく変えた政権だが、本当は、こうした国家権力を監視、制限するのが憲法の力であるはずなのに、この憲法を担保することなく、国民不在の実質の憲法改正状態を作り上げた。

 理論のための理論を重ねるというのでなく、現実に自衛隊は戦闘地域へ向かい、訓練は実弾を用い、多国籍軍と共同作戦の一端を担い実戦形式で不可欠の存在になろうとしている。

 さらに、自衛隊に統合作戦司令部を新設し、在日米軍の指揮権を持つ米インド太平洋軍司令部とパートナーとなり米軍との「指揮統制」の連携強化を図るとしている。

 そうした流れもあるから憲法改正をという。
 逆にそれは、イレギュラーにタガが外れた状態を作り上げた上に、今度は正式に国民が、現実に日本という国が戦争のできる国へと向かうということを承認する結果に繋がる、そうした危うい状態を国民自身が作り上げようとしているのではないか。 

 戦後昭和の時代と、平成以降の今とは、自衛隊の立ち位置、存在意義が大きく変わったということをもっとしっかり認識すべきであり、条文上の理論としての憲法改正ということでなく現実をちゃんと直視していけば、今のこの段階ではそういった議論にはなっていかないと強く思う。

シビリアンコントロールから考えてみる

 戦争という現実はそういうものであるが、日本も日中戦争では、当時中華民国の首都であった重慶に対して反復実施した大規模な空襲、最後は一般市民も巻き込んだ無差別爆撃と批判された。

 米国は日本全土を焼夷弾等で焦土化し、沖縄決戦を行い原爆を投下、多くの一般市民が犠牲になった。朝鮮戦争での爆弾の総量は、日本の4倍にも及んだという。ベトナムでは枯葉剤を撒き400万人のベトナム人が曝露したという。

 現実にロシアーウクライナ、イスラエルーハマスの現状がどうなのか、戦争とはそういう現実である。

 前回、太平洋戦争開戦のことを書いた。各国の思惑が交錯した事実が最近になって明らかになり、今の日本はそういったことにはならない、私もそう思うが、今の世界の現状を見て、憲法のタガが実質外れ、戦闘地域へ自衛隊が向かい、現実に殺し合いの現場を重ねていくとするならば、日本という国がそんな状態へ少しずつ足を踏み入れていくことにならないか…。
 戦闘地域へ向かうという現実を前にして、シビリアンコントロールを考えてみる。

 自衛隊のあるマチで、自衛隊との関わりを持つからこそ思うことでもあり、もっと危惧するのは、戦争へ足を踏み入れる、そのメカニズムのようなものを、報道としての立場から心を痛め考えていることがあるからであり、次回、そこに触れていきたい。(米永20240814)

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