2023年12月01日 12時06分

《戦争と平和 》

鹿屋市街地は盆地であり地形的に攻撃するには難しい場所

空襲・戦災・戦争遺跡を考える九州・山口地区交流会

 空襲・戦災・戦争遺跡を考える九州・山口地区交流会が、2023年11月25~26日鹿屋市で開催され、鹿屋市平和学習ガイドなど九州・山口での戦時中の出来事や、戦跡調査の研究成果を発表した。

 九州・山口地区には、B29部隊による中小都市爆撃や沖縄作戦支援、極東航空軍による九州上陸に向けての空襲、米機動部隊による艦載機空襲など、共通した数多くの話題がある。

 日頃は各地域で地道に調査・研究を続けている人たちが一堂に会して、戦争体験の継承や米軍資料の検討、戦争遺跡の保存について話し合ったもの。


25日の発表概要は次の通り(敬称略)。
▽「8月5日、鹿屋市花岡地区空襲と垂水空襲」
小手川清隆(鹿屋市平和学習ガイド)
 鹿屋市花岡地区は昭和19年に海軍鹿屋基地にあった第22海軍工廠の一部が移転、魚雷に関する工場が置かれた他に探照灯や高射砲も設置されていた。
 昭和20年8月5日、正午過ぎ鹿屋市花岡地区を米軍爆撃機B25数十機が空襲。焼夷弾を投下、わずか1時間余りで30軒余りの住宅が全焼。
 花岡空襲と全く同日、同時間垂水市を米軍爆撃機、戦闘機300機余りが襲い、機銃掃射と焼夷弾で攻撃した。垂水市の市街地すべてが廃墟と化してしまった。
垂水市にあった「垂水海軍航空隊」との関連から両空襲についても語った。

▽「地理院地図」を用いた戦争遺跡の検索~鹿屋市の事例を中心として
安藤広道(慶応大学)
 戦争遺跡は、戦争について考え、想像し、対話を続けていくための起点となる重要な場所である。そして、どの遺跡を保存し活用していくかを考えるには、どこにどんな遺跡かおるのかを悉皆的に把握しておく必要かおる。
 本来、そうした調査は自治体が行うべきものであるが、遅々として進まない現状では、研究者や市民が主体的に行っていくしかない。ここでは、その一助となりそうな、「地理院地図」を用いた戦争遺跡の簡便な探索方法について、鹿屋市における成果を中心に紹介。

▽「鹿児島県内に設置された海軍防備衛所の現地調査報告」
八巻聡(鹿児島の戦跡を探る会)
 太平洋戦争中、日本海軍は重要な港湾や海峡への敵潜水艦侵入に備え、要所に防備衛所を設置した。鹿児島県内では薩摩半島に「山川防備衛所」、大隅半島に「大浦防備衛所」、種子島に「喜志鹿防備衛所」と「島間防備衛所」を設置し、鹿児島(錦江)湾、大隅海峡、種子島海峡の監視に当たった。これら防備衛所の所在地、現存遺構、役割など現地調査の結果を報告。

▽「鹿屋周辺の防空施設」
永益宗孝(長崎県松浦市)
 戦時中、現在の鹿屋市域には3つの飛行場かおり、そこから多くの特攻機が飛び立つたことが知られている。
 そして、米軍の猛烈な空襲をくり返し受けたことも知られている。飛行機や燃料がなければ特攻もできないし、飛行場が穴だらけだと飛び立つこともできない。この3飛行場の防衛は、九州海軍航空防空第一大隊が担当していた。
 現在は畑地に戻されたり、住宅地として開発されたり、遺構は残っていないかも知れないが、3飛行場の周辺にはどのような防空施設があったのか、少ない海軍の資料、戦争の体験談、米軍が撮影した航空写真などから、できるだけ見つけたい。

▽B-29部隊の沖縄作戦支援と鹿屋空襲
工藤洋三(空襲・戦災を記録する会)
 1945年4月1日に行われた米軍の沖縄上陸開始の前後に,戦略爆撃機B-29を沖縄作戦を支援するために戦術的に使った時期があった。
 特攻基地が出撃する航空基地を攻撃するのが具体的な任務であったが,鹿屋は他のどの飛行場よりも多く空襲を受けた。
 B-29部隊の具体的な作戦について,93回に及ぶ作戦が第21爆撃機集団の5冊の作戦任務報告書にまとめられている。
 これらの報告書の記載に注目してB-29部隊の鹿屋空襲を紹介。また,硫黄島に基地をおく第7戦闘機集団のP-51部隊による4月16日の鹿屋空襲についてもその背景などを紹介。
 当初は戦略爆撃を継続しながら,その戦力を部分的に支援に回すと想定していたと考えられていた計画が,日本車の激しい抵抗に遭って,全面的な支援に変わっていくが,詳細に検討すると,その具体的な作戦も少しずつ変化していったことを明らかにする。

▽「米海軍艦上機による南九州への戦闘機掃討」
織田祐輔(豊の国宇佐市塾)
 米海軍の高速空母機動部隊は沖縄本島攻略作戦を支援するため、1945年3月18日から6月8日にかけて断続的に南九州各地の日本車航空基地へ空襲を実施した。
 米海軍では、これら一連の空襲を「攻撃(Strike)」と「戦闘機掃討(Fighter Sweep)」に区別している。
 米海軍作成の一次史料を用いて、南九州各地に対して行なわれた「戦闘機掃討」がいつ、どこに対して、どの様な規模で実施されたのか明らかにしていく。

 6人の発表が終わり、この日の全体討論もあり、質疑応答では、「南九州への空襲で、日本軍は何も抵抗していないような記述もあるが、場所によっては、弾薬等が残っておらず、空襲を受けるがままのところもあったかもしれないが、高射砲などでかなり抵抗している」。

 「なぜ、鹿屋の市街地が空襲を受けなかったのか、それは基地を占領したあとに市街地を接収する予定で空襲を避けたという見解もあるが、実際、攻撃命令は出ていた。しかし、市街地は盆地になっていて、地形的に攻撃するには難しい場所でもあり、低空飛行をすると基地周辺の高射砲等に狙われる危険性もあり、周辺の爆撃となったのでは」。

 「鹿屋市が町から市になったのは昭和16年であり、その時米軍のB-29は、15年の国勢調査情報により、全国の主要市が攻撃されたが、古い情報で鹿屋は町のままの資料で、B-29の攻撃から漏れたのではないか」などのやりとりがなされていた。


26日の発表概要は次の通り。
「九州・山口各地からの事例報告」

▽「芦屋基地に現存する飛行機用掩体について」・
住吉太郎(福岡大学学部生)
 太平洋戦争が守勢に転換した1943~1945年、日本本土では本土空襲に備えて貴重な航空機を隠蔽するための飛行機用掩体が飛行場周辺に構築された。
 福岡県遠賀郡芦屋町にある航空自衛隊芦屋基地は、かつて北部九州最大の規模を持つ陸軍芦屋飛行場であった。飛行場には隼、飛燕、疾風、五式戦闘機、武装司偵などが配備され北部九州防空の任務に就いていた。現在、芦屋基地内にはコンクリート製の有蓋掩体が15基以上現存しており一部は倉庫として利用されている。内3基は滑走路拡張工事のため消失予定である。
 今回実施した調査では消失予定の2基を含む4基の掩体の調査を行った。構造は陸軍型有蓋掩体に良く見られる正面開口部が成形されていないアーチ型で、規模などから一式戦闘機づ隼」の格納を目的とした小型有蓋掩体と推定される。
 これらの掩体壕は平和の尊さや戦争の悲惨さを後世に伝えるためにも重要な戦争遺跡であり今後の動向を注視する必要がある。

▽鹿児島県の空襲状況(中間報告)
▽「九州・山口各地からの事例報告」
⑦住吉 太郎(福岡大学学部生)「九州における掩体壕と飛行場の関係」
⑧野崎 哲司(大分県別府市) 「南九州の陸上回天基地」
⑨相戸 力(福岡県筑紫野市) 「山家地下壕建設の再検討 Ⅲ」

 報告会のあと全体討論があり、第五航空艦隊司令部壕や海軍笠野原基地掩体壕、海軍串良基地地下電信壕などの現地見学会もあった。

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