《歴史 》
由緒ある高屋神社例祭厳かに 水神祭や高屋山上陵跡参拝も
肝付町内之浦地区にある高屋神社例祭が、令和7年10月25日、厳かに行われた。
高屋神社は、第12代景行天皇が創建したと伝えられている由緒ある神社。
景行天皇が即位して12年たった頃(西暦82年)、南九州に居住していたとされる熊襲を征伐するため天皇自らこの地を訪れ、このときに国見山頂に祀られていた高屋山上陵から彦火火出見尊(ヒコホホデミノミコト)を勧請し、高屋神社を創建したとされている。
写真=高屋神社例祭
景行天皇は高屋神社のすぐ横にある天子山の高屋宮に6年間滞在。詳しい記録は2度の火災で焼失、神社はその都度、肝付氏や島津氏によって再建されたという。
「三国名勝図会」などの古い文献によれば、高屋神社は格式高い神社で、明治5年6月には、明治天皇が西郷隆盛などを従えて鹿児島に巡幸した際、皇祖が眠る鹿児島の三山陵を鶴丸城(現在の黎明館)から、吾平山上陵などとともに遥拝。勅使を派遣して、高屋神社に10円金貨を奉納したとされている。
祭神は次の通り。
彦火火出見尊(ヒコホホデミノミコト)初代神武天皇の祖父、鵜茅葺不合尊の父。
豊玉姫(トヨタマヒメ)、彦火火出見尊の妻
邇邇芸命(ニニギノミコト)彦火火出見尊の父
木花佐久夜毘売(コノハナノサクヤヒメ)彦火火出見尊の母
鵜茅葺不合尊(ウガヤフキアエズノミコト)彦火火出見尊の子
玉依姫(タマヨリヒメ)鵜茅葺不合尊の妻。
写真=水神社祭も
高屋神社は、国見山頂に祀られていた高屋山上陵から勧請し創建されたが、明治7年に高屋山上陵が今の霧島市溝辺に移されてから、高屋山上陵も歴史の中から忘れ去れてようとしており、その里宮である同神社も、昭和45年ころまでは流鏑馬も行われ、例祭では舞いも舞われていたという。
そしてこの9月から地域住民ボランティアによって、この歴史ある神社を大切にしていこうと、境内の清掃が始まり、今回の例祭もその地域住民が参加して例祭を盛り上げた。
また、例祭前の23日には、その地域住民らが本宮でもあった高屋山上陵跡をお参り、高屋神社の歴史的背景も学んだ。
当時の高屋山上陵付近は内之浦から高山に向かう海岸線の道路も、もちろんトンネルもなく、山越えをする交通の要所としてだけでなく、ここから肝属平野や高隈山系、志布志湾、内之浦湾を見下ろす神聖な場所として、地域住民から大事な場所として崇められていた。
また、国見岳、黒尊岳、甫与志岳もそれぞれ大事に祀られ、三岳参りが行われていた。
写真=国見山頂にある高屋山上陵跡のお参りも
内之浦地区の神社では、11月2日(日)にも小串神社でも例祭が開催される予定で、高屋神社清掃ボランティアの地域住民も参加する予定だという。
中村真理子さんは、「伝統的な例祭の流れが見られてよかった。昔は巫女さんの舞があったり、奉納には生きた鶏だったそうです。来年は奉納踊りとかあるといいなと思いました。70代〜80代の方たちは流鏑馬もあったんだよ、と言ってました。
流鏑馬に似たような何かなど、できるだけ伝統を残して引き継いでいきたい。」などと話していた。


























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