《戦争と平和 》
戦後80年に係る鹿屋の歴史について教職員研修~西原台小
同小10代目PTA会長で鹿屋市議会議員の原田靖さん講師に
「戦後80年に係る鹿屋の歴史について」の職員研修が令和7年7月22日、鹿屋市立西原台学校で開催され、同小学校10代目PTA会長で鹿屋市議会議員の原田靖さんが、戦後80年に係る鹿屋の歴史について講演。
郷之原の歴史とたくましく生きた人、太平洋戦争と西原台小周辺などについて話し、教諭、職員が興味深く聴いていた。

写真=建立漏示の慰霊塔の説明をする原田氏
原田さんは、同小学校近くの小塚公園内にある旧鹿屋航空基地特別攻撃隊戦没者慰霊塔が昭和33年に建立されたときの写真を示し、当時の様子を説明。
野里国民学校の神雷部隊について、人間爆弾、桜花、桜花の碑に記されている山岡荘八のこと。
川端康成も海軍報道員として訪れており、死地へ向かう若者を見送り続けたが、特攻については書き残したものがないこと。
今は、野里国民学校の国旗掲揚台だけが残っているだけとなっている。

郷之原地区はほとんど爆撃を受けていない地域だったが、弾薬庫があり爆発して一人亡くなっており、また、片づけをしていた時に爆発してまた亡くなっていること。
郷之原には掩体壕もあり、屋根のない無蓋の掩体壕で、爆風を防ぐものだったが、作ったあとにほとんど使われることがなかったとも言われている。
学校近くの崖地に一か所残っている。
太平洋戦争は鹿屋で始まって鹿屋で終わったと言われ、それは鹿屋会談で真珠湾攻撃の話し合いがされ、指宿の知林ヶ島を戦艦に見立てて演習した。
金浜海岸には終戦後すぐ2500人の進駐軍が上陸をしており、高須町の人たちが記念碑を建立。
その進駐軍上陸のことについては、その時、高須小学校に校長として赴任してきた新弘さんが日記をもとに「昭和の陣痛」という本を書いており、そこに詳しく書いてある。
上陸した日、町民はいない逃げていない状態で進駐軍が上陸したが、上陸した高須の海岸で花束を贈呈をしたという写真も最近見つかっている。

西原台小の周りは、私たちが小さいころ遊んでいた場所であり、センターの下のところが自衛隊の射撃場の的になっており、校長先生から射撃訓練があるので絶対行くなよ…と言われたが行っていた場所。
薬莢を探して鉛をとって遊んでいた。
今年は、戦後80年ということでいろんな行事があるので、皆さんも参加してください…など語り、職員のほとんどが初めて聞く話も多く、頷きながら熱心に聞き入っていた。