《鹿屋経済同友クラブ 》
錦江湾横断道路の早期実現を
鹿屋経済同友クラブ例会
鹿屋経済同友クラブ(中原浩一会長)の令和5年度2月例会と会員親睦会が21日あり、錦江湾横断道路の早期実現に向けて~ 過去・現在・未来 ~として、錦江湾横断道路の早期実現に向け、これまでの活動内容について田中俊實特別常任幹事、現在の状況等について久保薗東一副会長がそれぞれ講演、情報の共有を図り、今後の要望活動につなげていく例会となった。
経済人としてまちづくりに繋げ
例会は鹿屋商工会議所で行われ、中原会長があいさつ。
田中特別常任幹事が、「東九州自動車道建設については、二階堂、山中先生のもとで活動を続け2000人の決起集会を行い、それが今に繋がり志布志まで開通した。
今度は桜島に橋をという運動をということだったが、私は最初は反対派だった。橋が架かればストロー現象で人が鹿児島市に移動、国も他に公共工事を抱えていたこともあり反対していた。しかしいろいろ勉強をしていく中でPFIによる建設、森山先生が桜島架橋を選挙の時に訴えられて、これまでポスターやテレカ、ステッカーなど作り活動してきた。
ストロー現象、鹿屋の街に魅力がないというより、半島間を繋ぐことで桜島や垂水に定住人口が増え、それが魅力を創っていく。経済人として設備投資してペイするかどうか調べ、それをまちづくりにつなげていくなど考え賛成に転じていった。
今は、久保園さんが鹿児島市と思いを繋いでいただいている」など話した。
写真=写真=これまでの桜島架橋の歴史を語る田中氏/現状を語る久保園氏
原点は桜島架橋の夢を
現実に…以後23年の活動
錦江湾横断道路推進協議会会長で、鹿児島の桜島大橋推進協議会相談役の久保園氏が次の要旨、講演を行った。
なぜ、鹿児島市に架かる橋に対しての運動を行うのか、それは、大隅は産婦人科が少なく、お産難民の状態が続き、異常分娩など移送中にフェリーに乗り遅れ死産になったケースがあった。また1993年の8・6水害では、都市機能が麻痺。
これらの危機意識があるなかで、顧問の山下繁樹さんが、当時鹿児島市議会議長をされていた森山裕さんに資料を手渡し、その後参議院議員になられ東京にお祝いに行ったときに、森山氏から「桜島架橋の夢を現実に」という資料をいただき、これは素晴らしいことだと、預かって帰り鹿屋経済同友クラブにお願いして、当時の立元会長がこれをやろう、ということになって桜島架橋の運動がスタート。早速4団体で桜島架橋推進協議会を立ち上げ、これまで 23年間国交省や関係団体に陳情、要望、さまざまな活動をしてきた。
鹿児島市で桜島大橋推進
協議会が立ち上がる
ただ、鹿児島市に架かるわけで、鹿児島市の住民が中心に盛り上がる事ですと言われ続けて来た。そしてやっと令和3年1月27日、鹿児島市の桜島大橋推進協議会が立ち上がり、現在活動中であり、皆さんのご協力をお願いしたい。
また、これまでの活動については、2000年~2004年に行政との研修、橋梁技術の現状、PFI手法研修、2004年7月桜島推進協議会発足。
鹿児島市内、天文館アーケード、中央駅前などで署名活動や募金活動を続け、2005年2月には、集めた504万円で桜島架橋基礎調査報告書が完成。
2005年4月には、鹿屋市文化会館で1200名を集め桜島架橋推進総決起大会を開催。基礎調査報告、「命を守る橋」「浮揚の橋」「県民の心の架け橋」であり、「経済効果や技術面など具体的に探り、国家プロジェクトとして位置付けてもらうこと」など大会決議を行った。
その後も自民党本部ほか東京陳情など活動を続けてきて、2022年6月には、県が広域道路整備基本計画で新広域道路交通計画案として高規格道路へ昇格。その後、塩田知事や下鶴市長を訪問。
また、鹿児島大学の井村准教授は、大噴火で地殻変動が起きトンネルは破壊される、吊り橋なら柔軟性がある…と指摘された。
昨年10月は、天草五橋を視察研修。1961年着工し1966年完成、五橋全て構造が違う工法ででき、当時県会議員の森慈秀氏が四半世紀に渡り皆から笑われながら又奥さんの死に目にも会えなく頑張り通しやっと完成。
今では九州屈指の広域観光ルートとして生活道路、産業道路、命の道路と地域の様々な活動を支える生命線として、大車輪の活躍をしている。二号橋公園に森慈秀先生の立派な銅像が立っている。
長島町獅子島架橋は、町が新聞に全面見開き広告宣伝しており、全国でも横浜市~千葉県を結ぶ案も出されており、先を越されてしまう…と訴えた。また宮古島の池間大橋、伊良部大橋、來間橋、永良部大橋のほか、甑島橋、リオ・アンテリオン橋、西瀬戸大橋(しまなみ海道)、神戸淡路鳴門自動車道など全国や世界の橋を紹介した。
場所をかのやグランドホテルに移し、会員懇親会が開かれた。