《雑草(コラム) 》
鹿屋市に残る戦争遺跡の保存活用要請 その実現を切に願う
鹿屋市新生町にある「第五航空艦隊司令部壕」。
戦争末期に沖縄近海での特攻作戦を指揮、アメリカによる空襲等が激しくなった終戦の年の2月に、地下壕からの指令が出されるようになったという。
その司令部壕は、延長700mほどに作戦室である参謀室、作戦電話室、暗号室、電信室があり、参謀室はコンクリート被覆されているものの、他はシラスがむき出しになっている素掘りの状態。
崩落等の危険もあって普段は立ち入り禁止となっていて、保存が出来ていない状態。
その鹿屋市に残る戦争遺跡の保存活用についての要請書が4日、有志団体によって鹿屋市へ提出された。
要請書の内容などは、15日付けで詳しく掲載してある。
写真=中のほどの写真2枚が知れ部壕跡
「沖縄戦における航空作戦の中心」「特攻作戦の指揮中枢」「南九州全域の航空基地を統括した拠点」として極めて重要な役割を担った場所である。
私は、戦後50年のときに、いろいろ聞いて回り、戦争遺跡を訪ねたことがあった。
そのときに、新生町の司令部壕跡、祓川のゼロ戦が格納されていた壕、今坂の三角兵舎跡などを探し当てて巡ってみた。
そして、東京の出版社の方から連絡があり、鹿屋周辺での戦跡を案内してくださいと頼まれ、司令部壕跡も案内差し上げた。
そのときの様子は、2000年11月、新人物往来社から発行された別冊歴史読本、戦記シリーズ52「海軍航空隊とカミカゼ」と題した雑誌に掲載していある。
その当時は入口に柵はなく入ることができた。
参謀室のコンクリート被覆されている部分以外の、シラスのところでは、崩落しているところもあり、そこまで奥には入れこめなかったが、司令部跡等の雰囲気は十分感じることができた。
その後、いつからか分からないが、柵がされ入れないようになっている。
要請書を提出したメンバーの中の鹿屋市平和学習ガイドの方々や、その繋がりでの慶應義塾大学の安藤広道教授らの調査もあり、その全容などほぼ分かり、電信室の中で通信をしている写真も、この壕のものと判明するなど、その歴史的価値が非常に高まってきている。
戦後81年経ち、この状態で残されていること自体がとてもすごいことだとは思うが、私たちが中に入った2000年からそのままの状態が続き、保存をしていくという方向にはなっていない。
鹿屋市では、串良の電信室として使われた地下壕と、川東の掩体壕は、文化財として保存されているが、価値としては、司令部壕跡のほうが数段上なのではないかと思う。
確かに戦跡としての2つの遺跡は文化財として指定されたが、祓川のゼロ戦が格納され、米軍が進駐してくるときに格納されていたゼロ戦が燃やされ、壕の天井に煤がついたままだった防空壕は埋められた。
戦跡ではないが、北田町にある鹿屋城跡は、今の市役所辺りまで広がっていたとされ、中央公園小動物園の辺りに石垣のような跡が残されていると聞いて、周辺の藪もいろいろ探し回ったが、見当たらなかった。
その鹿屋城跡も本丸には水源からの貯蔵タンクが設置してあるし、最近では長寿坂の道路工事があってずっと通行止めがなされていて、工事が完了して通ってみると、道路横のお堀が全部埋められていて、唖然としとても悲しかった思いをしている。
ごく最近では、吾平山上陵にあった広葉杉、ものの本では、江戸時代中期から後期に日本に伝わったとされているが、吾平町誌などからして江戸前期のもので、日本最古とも思われるその巨木が今年になってからばっさり切られていた。
きのこ菌が入ったからということらしいが、毎月ほど見ていた私には、そうした兆候は見られなかった。
切り株になった姿をみて涙が出そうだった。
一人でも多くの市民が、このことを知ってもらいたい
まだまだ大事にしないといけない歴史や史跡はあると思うが、時が経てば経つほど、思いは薄れていくのだろうか。
今回の要請書は、市長が交替したタイミングでということもあるのだろうと思う。
地元で戦跡等を紹介している平和学習ガイドや、研究者を含めて、この司令部壕跡の価値の高さはともに認められていると感じる。
一人でも多くの市民が、このことを知り、まずはしっかり保存されていくことを切に願う。(米永20260816)












































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