《雑草(コラム) 》
吾平山上陵も深めていけばもっと面白い 鵜戸六所権現 初詣
先日は、鹿屋市吾平町の湯遊ランドでキャンプイベントが行われ、吾平山上陵バスツアーもあった。
県内各地からアウトドア好きが参加し、それぞれのスタイルでキャンプを楽しみ、吾平山上陵もほぼ初めての皆さんで、小伊勢と言われる陵で、凛とした参道を進み、その歴史や風景を楽しんでいた。
大隅半島の歴史については、本紙でも「大隅学をはじめよう!」などこれまでシリーズで書き記してきた。
特に肝属川河口から志布志湾にかけて連なる古墳や、南九州に伝わる日向(ひむか)神話のことをそれなりに調べ伝えてきた。
肝属川沿い点在する古墳群を調べ、その支流沿いにある吾平山上陵とを考えてみると、距離も時代もそこまで離れているわけでもないし、吾平山上陵の近くで出土した古墳時代の象嵌装大刀などを考えると、双方の結びつき、接点になるようなものがあるんじゃないか、という思いを持ちながら…。
写真=三国名勝図会での鵜戸六所大権現 左下が吾平山上陵
ただ、そうしたことを調べていく中で、それぞれの遺跡、史跡一つひとつを解説するものはあっても、その関係性についての文献はなく、地域の中でも、詳しい文章等はない。
なので自分で調べていくしかないが、返って遠方から来られた方のほうが興味を持っておられたりする。
地元の方々の中には、これは神話だから軽々に語るな…と教えられてきたとおっしゃったりする。
だけど、吾平山上陵を調べていく中で、今の総合支所隣にある鵜戸神社は、もともと岩屋の陵の東側にあったが、明治4年(1871)の災害によって今の場所に仮遷座されている。
しかし100年近くもの間、陵の隣に戻ることなく、昭和39年(1964)には旧本殿・舞殿を現在地に新築し遷座され、戻ることは叶わなかったという歴史がある。
747年 勅により六所大権現と号した鵜戸神社
つまり明治4年以前、江戸時代まで長らく吾平山上陵と鵜戸神社は、今の参道を隔てて並び祀られ、参拝されてきた。
今、初詣に多くの訪れるのもその名残であり、「墓やらよ、なんで…」という人もいるが、それはこの歴史を知らない人の言葉でもあるのだろう。
そしてこの鵜戸神社の歴史を調べていくと、奈良時代まで遡る。
文禄3年(1594)大脇主馬太夫盛親が書写した「神記」によれば、天平19年(747)9月19日勅により六所大権現と号し、弘安3年(1280)2月1日勅使の下向があったとされている。
747年、奈良時代には、この鵜戸神社があり、その当時の存在だけでなく、勅(みことのり)により六所大権現と号したということは、それ以前から篤く祀られてきたからこそのことであり、飛鳥時代には存在していたのか…、あるいはそれ以前も。
神仏習合、鵜戸神社と吾平山上陵と…
大事なことは、「勅」によりということで、つまり「天子(皇帝・天皇)の命令、またはその命令が書いてある文書」であり、しかも「六所大権現」ということは、神仏習合、鵜戸神社は陵とともに祀られてきたということでもある。
吾平山上陵は神代三山陵とされ、神話の中の話なのかもしれないが、「鵜戸六所大権現」の歴史を紐解いていけば、おそらく仏教が伝来されてきた飛鳥時代以降、少なくとも古事記や日本書紀が編纂された奈良時代から現実の歴史の中で、天子とともに地域の中で篤く祀られてきて、今がある。
古事記や日本書紀に関してや神話についても、様々な説があり、これをまた学んでいくと面白い。
古墳時代の象嵌装大刀の発見や周辺古墳の存在も
歴史学者津田左右吉は、日本神話はフィクションであり、出雲神話について当初梅原猛もフィクションとしていた。なので「神話なので軽々…」となるが、出雲大社の巨大御柱が発見され巨大神殿の存在が話題になり、荒神谷遺跡では358本の銅剣、銅鐸6個、銅矛16本が発見され、出雲神話、出雲王国は実在した証しとなっているのか。
歴史は刻一刻と変わっていく。
それでは、日向(ひむか)神話はというと、大方、宮崎の神話とされているようで悔しいが、吾平山上陵と鵜戸六所権現、そして陵の近くで発見された象嵌装大刀。
そして周辺の古墳群まで併せ考えていくと、この大隅半島まで含めた南九州の神話が面白い。
もっと別なことを書こうと思っていたが、吾平山上陵公園でのお茶会で話題に出て、お正月も近く、初詣での話題の足しになれば、と…。
吾平山上陵も深めていけば、もっともっと面白い。(米永20251219)














































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