《おおすみ雑記 》
この揺れ動く時代だからこそ、もっと学びたいこと
戦後80年、これまで戦争遺跡を訪ねたり、戦争体験者の聞き取りなど、その歴史にいろいろ関わってきた。
今現在、この地球上で数多くの戦争や紛争が起こっている中で、2度と悲惨な戦争を繰り返さないと誓い、願うのは、市民、国民の個々のレベルでは難しくなっているのだろうか。
それでも、やはり戦争で最終的に被害を被るのは弱者であり、非力かもしれないが声を上げ続けなくてはならないと、現実に起こっている戦争の現状を見るときに、さらに感じている。
日本が太平洋戦争に突入していったのは、様々な原因があるのだろうが、当時大陸からアジアへ進軍していく中で、派兵された20万人の犠牲者を見捨てることができなかった…という当時の戦争指導者の一つの決断があったとも言われている。
しかし、最終的に310万人の犠牲者、特に戦争末期で多くが亡くなっている。
沖縄決戦や本土空襲、原爆投下など、無抵抗の女性や子どもも含めてのことで、一旦戦争が起こってしまうと、銃を持って戦うだけでなく行きつくところまで行きつかないと収拾がつかないという歴史が繰り返されている。
写真=戦時情報局でやしまたろうがイラストを担当した『運賀無蔵』
そして、この仕事をしていて思うのは、ラジオや新聞、テレビが戦争の事実を捻じ曲げ伝えたことで、戦いを助長する結果となって、そのことで犠牲者も増え続けていった。
本来ならば、戦争の現実を事実として伝え、戦争終結に向けた報道がなされるはずが、真逆なことを行った責任は、いまだ問われていないというのが現状なのか。
そうした思いに駆られるときに、むのたけじさんを思い浮かぶ。
太平洋戦争従軍記者としての経験・反省から、8月15日の敗戦を機に、権力の統制に屈服して太平洋戦争の戦意高揚に関与した責任をとり退社し、自ら新聞を発行し、戦後に反戦・平和を訴え続けた。
むのさんもだが、先日、南大隅町での「やしまたろうの日」の取材をし、その歴史を知った。
生い立ち等は省くが、東京美術学校時代、軍事教練を散発的にボイコットするなどで退校。
丸の内新聞の漫画記者、漫画雑誌「東京バッタ」の連載、美術新聞の編集長も務め、プロレタリアアートの中心的存在で、戦争批判の作品、反戦ビラ配布などで10数回にわたり逮捕拘留。
新たな平和観、戦争観というもの
渡米し戦時情報局OMIに勤務。OMI辞職後、ザ・ニューサンを八島太郎の名前で出版、一躍時の人となる。
アメリカ日本人社会では、活動を広げる姿に反感され、日本ではスパイと呼ばれる中で、アメリカOSS戦略情報局で働き、中国やインド戦線に派遣され終戦。
アメリカ戦略爆撃調査団員として日本に派遣され、帰還後はニューヨークに居を構え出費つ活動に精を出し、47歳でからす太郎を出版。その後絵画、相次ぐ出版で活動…という半生を知った。
詳しくは、まだまだその人生があられるのだが、深く知ることはなく、南大隅町出身の絵本作家的な知識しかなく、こんなすごい人が、この大隅半島にいたのだということを改めて認識、自分の中ではかなりのショックであった。
ただ、こうした人たちの歴史をたどっていくことで、また新たな平和観、戦争観というものを持ち、学ぶことができる。
過去に目を閉ざす者は、現在にも盲目となる…特に戦争の歴史、この揺れ動く時代だからこそ、地域の偉人をもっと学びたいと今更ながら感じている。(米永20251025)


















































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