2024年05月11日 09時44分

《おおすみ雑記 》

何らかの形で日本進駐の鹿屋ストーリーを歴史の表舞台へ

 鹿屋市名誉市民第1号の永田良吉氏は、1886年(明治19年)9月生まれで、他界したのは1971年(昭和46年)5月11日で、ちょうど没後53年となる。鹿屋市庁舎前に胸像が建立されているが、ご存じでしょうか?

写真=終戦の日の日記、9月2日戦艦ミズーリでの降伏文書で終戦、玉音放送を聞いた直後では「停戦」だったのか……

 没後50年では、生誕135年パネル展が、鹿屋市役所1階市民ホールとリナシティ1階で開催された。

 この年の本紙新年号に「没後50年 新たなストーリーを」「まずは地元が誇りに思うこと」「永田市長がいなければ今の鹿屋の形はなかった」などとして「感服!痛快!永田良吉物語」を書いてその後連載もした。

「破滅」を意味するダウンフォール作戦、鹿屋が関わるオリンピック作戦

 伝えたかったことは、敗戦直後の第一次進駐は、鹿屋、厚木、横須賀の3か所が決められていたが、天候の影響で鹿屋が2日遅れたこと。

 これは、太平洋戦争で、日本が降伏しなかった場合、アメリカ軍は日本本土に上陸して地上戦を開始することを計画。

 「破滅」を意味するダウンフォール作戦の中、1945年11月1日には、宮崎海岸(宮崎)、志布志湾および吹上浜(鹿児島)の3地点から上陸して南九州に航空機の基地を確保するオリンピック作戦を計画していた。

 それは、九十九里浜(千葉)と相模湾(神奈川)より関東平野に上陸して首都・東京の制圧を目指す、もう一つの作戦であるコロネット作戦に備えることを目的としていた。

 オリンピック作戦で鹿屋基地をまず抑え、首都・東京の制圧のため、鹿屋から首都圏へ空爆していくというダウンフォール作戦だった。

 日本への第一次進駐は、このオリンピック作戦に基づいた鹿屋基地と、そして首都圏への玄関口、横須賀、厚木へと決められたのだった。

日本進駐の大きな歴史の1ページなのだが…

 現実に進駐軍が、本土上陸をしてきて大混乱に陥った鹿屋市。

 当時の進駐軍のシリング大佐ら将校たちと、永田市長らとのやり取りをつぶさに見てみると、横須賀や厚木とはまた違った敗戦後日本において大きな意味を持つものだった。

 それは、シリング大佐がまず最初に「カミカゼボーイはどうしているか?」と聞いたように、進駐にあたって一番気にしていたことであり、鹿屋基地が特攻の最前線の場だったことを知ってのことで、現実に敗戦直後は、そのカミカゼボーイにまつわり一触即発の状態だった現実がある。心が震える場面だ。

 進駐では、マッカーサー連合国軍最高司令官がまず厚木飛行場に降り立ったところなどが大きくクローズアップされているが、その裏で、鹿屋での進駐軍と永田市長のやりとり、市民の動向は、日本進駐の大きな歴史の1ページであり、その部分だけでも後世にしっかりと残すべき、特に鹿屋に住む子どもたちに伝えるべきストーリーだと強く思っている。

ご遺族から貴重な永田氏の日記等を預かり、その解読も…

 一つには、昭和36年に発行された691ページにも及ぶ「永田良吉伝」があり、永田良吉伝刊行同志会編集部編著だが、没後50年では、永田良吉顕彰会として活動を続けていこうというパネル展でもあった。しかしコロナ禍もあったり、なかなか市民の地域の歴史に対する関心を引き込むことも出来ず、そのままの状態だった。

 ただ顕彰会に対して、ご遺族から貴重な永田氏の日記等をお預かりし、それら一式を鹿屋市文化財センターに預け、保管していただいている。

 先日は、鹿屋市平和学習ガイドの方と雑談をしている中で、戦後鹿屋の本当の姿を知るためには、その当時の市長だった永田良吉さんの日記を紐解くことが大事なのではという話になった。

 ただ、その日記は筆で書かれ、かなりの崩し字で読み取るのには苦労する。
 それを解読していく作業も必要では…という話にもなった。ご遺族の承諾も必要だが…。

産業面でのその功績も多大なものがある

 没後53年のこの日、その新たなスタートラインに立てたらとは思うが、それにはかなりのエネルギー、パワーが必要かと思う。

 何らかの形で日本進駐の鹿屋ストーリーを、歴史の表舞台に出せるようなそんな機運が高まれば…とも感じている。

 また、没後50年では、鹿屋の偉人~大隅の渋沢栄一、その軌跡たどる~という演題で講話もさせていただいたことがある。

 産業面でのその功績も多大なものがある。また、どこかでそうしたことを伝えることができればとも思っている。永田氏没後53年の日に考えたこと…。(米永20240511)

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