《雑草(コラム) 》
古墳、天皇陵、権現、山岳信仰、天狗、黒潮、独自の文化
まったくの私見で日本人のルーツというようなことを前回書いたが、さらに続けて…。
大隅半島に存在する古墳について、いろいろ調べていくと、地方豪族の権力の象徴であった古墳は、その大きさで権力を示す傾向にあり、肝属川河口の柏原側にある唐仁古墳群の1号墳、前方後円墳は、県で最大、九州で3番目に大きい。
ただ飛鳥時代、552年とも言われる仏教の伝来で、この権力の象徴が、寺院や仏像の建立にとって代わることになる。
古墳の築造が急に途絶え、新しい文化が席巻し古墳時代が終焉する。
写真=大箆柄岳1000mにある天狗像、残念ながら片方の羽は落ち、残されたほうも危ない
写真=高隈にもう一つある平野天狗像
古墳の前方後円墳では、その発掘物などからして呪術、宗教的儀式がシャーマンによって行われ、それは自然崇拝や神道的なもの、八百万の神に祈る多神教的なものへと繋がってきた。
そこへ仏教が伝えられ、日本では神仏習合という独自の祈りの文化が生まれた。
今は神社と寺院は、明治の廃仏毀釈で、仏教と神道が区別されている当たり前の日常だが、それ以前の幕末までは、自然とのかかわりの中で仏と神を一体で不可分とする神仏習合で、祈りが捧げ続けられてきた。
四季折々の自然の恵みを受けて生きてきた私たち日本人の根底には、自然と共存し感謝する心が自ずと育まれてきたのである。
そこへ仏教が伝来され、日本の神々に「権化」され祀られた「権現」であり、吾平山上陵の隣にあった鵜戸神社も、詔で鵜戸六所権現とされ、時に肝付氏や島津氏など権力者や地域民からも大事に護られてきた。
神廟ありて天台~吾平山上陵
吾平山上陵の歴史をたどっていくと、旧吾平町誌の中に「上古は神廟ありて天台の別当寺と有りけるに応永頃の乱世よりいつとなく廃れ果てしと古く書ける物に見ゆ」とある。
上古というのは、いつ頃か分からないが、「天台の別当寺」とある。
宗教については無学なので分からないが、千日回峰行や十二年籠山行など山伏の修行、山岳信仰を基にした修験道は天台宗の大事な修行でもある。
「神廟ありて天台」はまさに神仏習合。
また「応永」年間は1394年から1428年までの室町時代であり、その頃は乱世で荒れ果てていたという。
そして、ここでは詳しく触れないが、江戸時代の明和4年(1767)、山伏の一人が陵の窟口に仏壇を構へ守札など行っていて、陵守が出ていくように諭すが、山伏聞かず…という文も記されている。
山伏、山岳信仰、室町時代ということを考えると、高隈山は霊山であり、山伏が多く訪れていた山々だ。
高隈山系大箆柄岳のちょうど1000mのところにある盆山に、室町時代の「天狗像」が、志布志湾の方向に向け鎮座している。
延暦寺の方向に向かって祈りが捧げられ修行を積んでいたのだろうか。
また祓川の瀬戸山神社は「関ヶ原戦後の頃、彦山の修験道の信者により開山され、明治の廃仏毀釈まで高隈権現として、真言宗の末寺であった五代寺の門徒によって管理されて来た。」とあり、その手前の公園一角には、五代寺の仁王像などが残されている。
さあ、お正月はどこへお参りに行く?
それらももっと詳しくそのうち触れてみたいが、国見山頂に明治7年まであった高屋山上陵。
国見、黒尊、甫与志と三岳参りが盛んに行われていたとも伝えられていて、肝属川河口近くからの国見連山と、肝属平野を隔てでんと構え聳える高隈山系の山々。
そこは古くから修験道の山々として、神々がおわす山岳信仰の対象として祀られてきたのも、とってつけたような言い方になるが、鵜戸六所権現や吾平山上陵へのお祈りと繋がるものがあると考えたりする。
何を伝えたいのかというと、前回書いた「他と調和しながら和をもって尊しとする柔軟で寛容的な日本人という気質が生まれ、それが引き継がれてきた」ということ。
全国にもっと有名な修験道や霊山はたくさんあるが、この大隅半島の歴史を学ぶことで、今は秘められメジャーではないが、黒潮に運ばれてきた文化やひむか神話と相まって、日本人という気質が生まれたルーツ、その一端を担っていた半島…。
高屋山上陵の里宮、高屋神社も内之浦にある。
さあ、お正月はどこへお参りに行く?
その歴史に思いを馳せながら…。(米永20251222)














































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