2025年12月22日 15時23分

《雑草(コラム) 》

他を許容し柔軟で寛容な日本人の気質は大隅半島がルーツ?

 続けて吾平山上陵のこと。お正月を迎え、初詣される方もいらっしゃると思うのでもう一言。ちょっと長文になってしまうのだが…。

 宮内庁が管理している初代神武天皇の御父、御母の陵墓。駐車場があって川沿いに吾平町物産展示館などがある公園から川を超えた先がその管轄となる。その付近から何か凛とした空気が流れ、気持ちが和む。

 最近は少し行けてないが、毎月1回はお参りするようにしていて、すれ違いお会いする方々には、こんにちはとお声掛けし、反応が良ければ会話する。

 何かスピリチュアルなものを感じる…という方も多い。

 反対に巷では、天皇という言葉に過度に反応される方もそれなりにいらっしゃる。それは戦争をイメージされているのではと思う。
 特にこの鹿屋は、特攻という歴史があり、今も自衛隊の基地があって、人によっては一種のアレルギーのような感覚を持っておられる人もおられるのかなと思う。

 それはある意味偏った戦後教育、私自身も高校を卒業してしばらくは、天皇に対するイメージは、どうも日本の歴史の中に何か引きずるものを残しての教えであったような気もする。

 ただ、吾平山上陵や高屋山上陵などについて興味を持って文献を調べ、古事記や日本書紀(記紀)を読み取っていき、この大隅半島の歴史に重ね合わせていくと、また違った新たな歴史認識が生まれ、感じるものがある。

 この陵墓があって古墳が並ぶ大隅半島の古代、古代以前は、倭国や日本という国にとってどんな役割、立ち位置にあったのだろうか。

南九州のひむか神話は大隅半島が主体…?

 例えば記紀が編纂された頃以前は、天皇ではなくて「大王(おおぎみ)」と言われ、白村江の戦など朝鮮半島や大陸との関り、倭国から律令制を敷いて日本という国を対外的に知らしめていくため、この国が大きく動き出した歴史の転換点の中にあって記紀も編纂され、そうした歴史の中での南九州の日向(ひむか)神話でもある。

 これは、律令制の中の「隼人司」や、畿内に存在する大隅島、大隅宮、今でも京田辺市大住の月読神社等で舞われている大隅隼人舞などを考え、神武東征も含めてそこを突き詰めていくと、ひむか神話は、宮崎だけのものではなく、大隅半島を含めた南九州のものであり、いやどちらかというと大隅半島が主体と考えたほうがすんなりくる。

 つまり、ひむか神話は、肝属川河口両サイドに2つ神武天皇御発航伝説地の碑があることも含め、明治7年まで国見山頂に高屋山上陵があり、大隅半島こそが舞台になっているということ。

出雲神話とひむか神話の違いは…

 大王から天皇と言われてから1300年近く、日本という国を治めるために、時にはシャーマン的に、あるいは八百万の神のいる日本独自の多神教的存在の象徴として政治的権力者に対峙し、バランスをとりながら、日本という国の礎をつくってきた。

 それは、一神教的に他を否定してそれを乗り越えて作り上げられるような社会ではなく、他と調和しながら和をもって尊しとする柔軟で寛容的な日本人という気質が生まれ、それが引き継がれてきたが、明治維新を経て西洋的思想、文明を取り入れながら太平洋戦争ではそれが、一神教的に政治的権力と一体となって利用され不幸な結果が生み出されることとなった。

 大隅半島には、初代天皇とその先代、先々代にまつわる日本人のルーツとなる歴史が記紀に記され、出雲神話がリマン海流と対馬海流が交わることよってもたらされた朝鮮半島の文化に影響を受けた地域での物語であるとするならば、ひむか神話は黒潮に乗った文化、南からの狩猟採集を中心に、1万年以上平和な時代が続いたと言われる縄文文化の影響を受けた地の物語でもあり、自然豊かな大隅半島が受け継ぎ、それが肝属川河口からの神武東征によって畿内へ運ばれていった。

 だからこそ律令制の中の「隼人司」も存在する。

自然を大切にする縄文的、多神教的な土壌

 戦中、戦後の私たちの世代が教えられた天皇のイメージは、吾平山上陵等をルーツとするその柔軟で寛容な日本人の心を長年支えてきたものとは違うものだ、今はそう思う。
 逆に大げさに言うとだが、自然を大切にする縄文的、多神教的で他を許容する柔軟で寛容な日本人の気質は、この大隅半島をルーツにしたものではないか。

 全くの私見であり穿った見方なのだろうが、そんな気持ちで吾平山上陵、あるいはその隣に明治4年まであった鵜戸六所大権現を思い、初詣されると、より平和な日本を祈ることができるのではないかとも考えたりする。(米永20251222)

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