2024年09月21日 17時53分

《雑草 》

メグロと双璧を争ったキャブトン~名車だった

 9月7日~8日と2日に亘って近隣のオートバイ愛好家「大隅レイクサイドMTG」が高隈ダム公園の近くの、太平洋農村研修センターと民俗館近くの駐車場に約350台が集まり、堪らないバイク好き人間には様々なスタイルや車種に出会へて会話が弾み交流を楽しんでいた。

写真=大隅レイクサイドMTGではメグロなどの旧車も

 高隈連山や大隅湖の景観は新緑が燃えるように映え湖面に写していた。
 同好会の仲間が2019年から開催していると言う。両日とも天候に恵まれマニアは好みのバイクを見付け珍しい車種には人が集まっていた。

 バイク仲間の親睦と交流が主の様で、青春時代に乗ったバイクを盛んに探し回っていた。
 中には大型バイクのノイズに暫し酔いしれる人もいたようで、ギャラリーやライダー以外の人も楽しんでいた様だ。

 折角のイベントで種々多様なバイクに出会えるチャンスに、若い頃乗っていた同じ型のバイクに出会えて懐かしく堪らなそうであった。

 バス便とか公共機関の便が少ないからと思っていたが、折角のバイクと出会える貴重なイベントを出来れば、多くの人の目に触れる様に、春にでもリナシティー界隈か霧島ヶ丘公園でも開催すれば良いと思ってはどうかと思う。

オールドカーイベントにも足を運び…

 一会場に400台近くのバイクが集まれば主催者は整理と管理が大変である。
 オールドバイクファンが垂涎の的の昭和30年代のオールドバイクとか、年代指定の愛好家の集いもライダーにもギャラリーには喜ばれると思った。

 人が集まるイベントは街興しには商店街の賑わいの相乗効果を期待して人が集まることが必然的に街に栄えることになり、鹿屋のリナシティ界隈は程々のイベントが絶えず行われることによって常に栄えることになる。

 車では、スズキのジムニーの旧車にも人気が高いし煌びやかに飾ったドレスアップ車も人目を奪うが、ノーマルでステアリングはパワーなしで、生ゴロが人気がある。
 ギアシフトはダルマチエンジが良く、4駆動車は軍用ジープを想起し山野の走駆は生ゴロ(パワハンドルなし)がハンドルに道路の状態が直接伝わり無理をせず故障が少なく維持費も掛からない利点がある。

 1台で兼用するならドレスアップして高速も荒れ地も走れるが、無理をさせない走行で故障せずに気分よく乗るコツである。これはジム二ー愛好家グループ定期的に集まっているのを例にとってのことの話である。

 開聞岳の麓では定期的にオールドカーやオールマイティの自慢の車の愛好会を地域がバックアップして、盛大に行われて有名であり私も数回行ってみて楽しんだ。
 鹿屋周辺からも大隅半島からも大勢見物人が多くいた

約200社あったオートバイメーカー

 バイクの話に戻し、昭和30年から40年代と年を経て大型バイクが車が人気が出だして、メグロ(カワサキに併合され)名称がカワサキに変わって来る。

 ホンダやヤマハとスズキは独自の名称を守り昭和20年代に雨後の筍の様に約200社あったオートバイメーカーもオートバイブームが去り、昭和年代が終る頃は約30社位に減り、現在生き残ったのは4社だけである。

 モータリゼションの過程で運搬や人間の移動は車に移行して、時代の趨勢が豊かに成り変化するのである。
 そのバイクは娯楽やツーリングと変わり若者の足にかわる。
 そのバイクに限定して話を進めるとホンダが脅威の成長を遂げ、オートバイと言えばホンダが代名詞になった地域も国もあった。

 このコラム、雑草で取り上げたいのはメグロと双璧を争ったキャブトンの名は忘れられない。
 愛知県犬山市で「みずほ製作所」として本社工場があり発売元は大阪の中川幸四郎商店である。
 1923年から1956年で、1954年最盛期であった。当初は自転車にエンジンを取付けて(モペット)走るバイクから始まったが、時代の要求は好景気で、映画ゴジラで主人公が乗ったキャブトンに発展する。

執念の全日本オートバイ耐久レース

 大型車バイクの需要は限られており250㏄や125㏄を量産し小型車に挑戦するが、ホンダやヤマハが先行しており、キャブトンは大型車のイメージが強くブランドイメージが生じ、生産過程で品質ユーザーの悪評を招きが不調であった。そして1956年倒産する。
 メグロは苦しい状況でもブランドイメージを守り川崎航空機工業が引き継ぐ。

 キャブトンの社長・内藤正一は大型バイクに執念を燃やし、昭和30年11月第1回全日本オートバイ耐久レースに(浅間山火山レース)に出場。
 350㏄クラス2台、500㏄クラス4台の大型車のみにエントリしホンダが1位から3位まで、ホンダ・ドリームが350㏄以上は独占、メグロは4位だったが、キャブトンは7位・8位。
 500㏄以上はDSKとメグロは外国製部品を使用し失格、キャブトンが2位3~4位と上がるが、このレースは商業車が注目され、125㏄クラスのヤマハと250㏄クラスのライラックが業績に繋がる。

 この大会が最後の頼みの綱だったキャブトンは1台当たり1千万円以上かかる経費を費やし、350クラスは惨敗。500㏄クラスも5~7位と振るわず、これが6千万円以上の費用と経緯を費やしレースの失敗で1956年不渡りを出し倒産する。

 負債総額2億円とあるが関連企業まで入れると6億から9億と言われ、債権者によって企業は再開されるが内藤正一社長の落胆とトライアンプに伍する事を夢見たが、丁度その折に伊勢湾台風が襲いダメージを受け身も心もボロボロになって行った。

世界各国でキャブトン・マフラーは有名

 彼の大型バイクの夢と執念は本田総一朗と互角で、エンジニア―としては優れていたが、本田のナンバー2の藤沢俊雄の経理マンが実質的な経営者で、その能力を天才的に発揮しホンダ社長はエンジン屋に専念して、苦境を乗り切った。

 それに比し内藤社長には信頼できる経理マンが居なく孤独であった。本社工場のを傍を流れる木曽川に身を投げ61歳の生涯を閉じる。
 キャブトンマフラーを残し、メグロにもトヨタ2000GT にもキャブトンマフラーの片鱗を見受け、現在も世界各国でキャブトン・マフラーは有名で汎用品として使われている。

 大型バイクに夢を託した男の思いはバイクがある限り永遠に残る鎮魂のマフラーである。
 私も青春時代(高校生時代)家業で使用していたキャブトン600㏄に乗ることができたことを今は亡き父と長男に感謝する。
 もうバイクに乗れないが、殆どの大型バイクに乗ったがやはりキャプトンは名車だった。(岩重20240921)

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