《戦争と平和 》
戦後80年に戦争の悲惨さや平和の大切さを語り継ぐ
第6回あの日を忘れない~3.18鹿屋発空襲によせて~
第6回あの日を忘れない~3.18鹿屋発空襲によせて~が、令和7年3月15日(土)13時30分~15時30分、鹿屋市東地区学習センター(鹿屋市新川町114-2)で開催され、笠野原地区の戦跡について、戦争体験者との対談、意見交換会などがあり、戦争の悲惨さや平和の大切さを語り継いだ。

写真=掩体壕づくりなど「体験を語る」吉岡利光さん(90)
80年前の昭和20年3月18日、鹿屋は初めて空襲に見舞われ、大きな被害がでました。その事実を振り返り、語り継ぐイベントとして毎年開催されている。
主催は、鹿屋平和学習ガイド・戦争遺跡調査員。
この日は、鹿屋市子ども平和学習ガイドの認定式もあり、13人の子どもガイドも参加して行われた。

写真=「体験を語る」瀬戸口ムツ子さん(95)
プログラムは、絵本の朗読、笠野原地区の戦跡、戦争体験者との対談、意見交換会など。
絵本読み聞かせでは、鹿屋平和学習ガイドの迫睦子さんによる「字のないはがき」朗読があり、熱心に聴き見入っていた。

笠之原エリアの戦跡案内は、同ガイドの古川修さんが説明。
大正11年に民間飛行場として誕生。昭和16年の真珠湾攻撃に参加していた第2航空戦隊艦爆撃隊もこの飛行場を使用。
敷地内には東西と南北に1本ずつ滑走路が有り、昭和20年1月には零戦72機が、同年4月の特攻機による「菊水作戦」展開の時には184機が配置。
昭和20年3月18日、米軍による集中爆撃を受け壊滅的な被害を受ける。
終戦後は、農地として無償で払い下げられ、飛行場跡には宅地や畑が広がり、当時の記録資料等は処分されてしまい、今ではほとんど残っていない…など説明。
聞き取りを行った牛渡邦雄さんの調査内容をもとに、地図を使い2本の滑走路跡、川東掩体壕、無蓋掩体壕、笠之原基地跡地下道入口、笠野原小学校、鹿貫谷両サイド防空壕、部品製作所、儒戦修理工場、二連機銃の地図上の位置やその解説があった。

写真=参加者との意見交換も
パネルディスカッション「体験を語る」では、3月18日の空襲などについて瀬戸口ムツ子さん(95)、吉岡利光さん(90)に話を聞いて、特に吉岡さんは、掩体壕づくりついて、その当時使われた道具の模型を使って詳しく説明、より具体的な話に熱心に耳を傾けていた。
参加者との意見交換もあり、それぞれの想いを戦後80年平和へのメッセージとして書き込んでいた。
会場には、終戦前後を中心としたパネルも展示され、また、慶應義塾大学の安藤広道教授らが手掛けた「海軍笠ノ原航空基地アーカイブマップ」、肝属地域の戦争に関する情報を集めた「鹿屋・戦争アーカイブマップ」などのPRも行っていた。

写真=戦後80年平和へのメッセージ