《行政 》
菜の花とSL~写真歴56年、語ることは多くある
終戦、そして復興、当時の日本の有り様は混乱期になりながらも未来に輝いていた。
その中心的役割にSLの存在があった。
写真は昭和45年吾平町と高山町の境にある論じの青空の下に菜の花畑を走るSL蒸気機関車C11の雄姿があった。
背景に肝属山地が望まれ、SLの後方に尖って見えるのが最高峰の甫与志岳(967m)である。
SLは志布志方面へ走っているが、後ろ向きに走っているのは鹿屋駅にSLの向きを変える転車台がなかったためである。

貨車の黒い鉄板箱にはコークス(石炭)が詰まれ、またパルプ原料の丸太木は、鹿屋駅からの集荷で高山駅を含め駅構内は貯木場と化していた。
出荷先は宮崎県油津の王子製紙へ搬入されていた。
鹿屋駅からの出荷品は他に木炭、アルコール、乾燥タバコ葉、澱粉、春雨、米、菜種、ビート、水飴など。
入荷品はビール、飲料水、小麦粉、製菓などの食料品や畜産用のフスマなどの飼料、化学肥料、セメントなど多品目に及び、SLは日本の動脈となり大隅発展の原動力ともなっていたが、昭和50年1月19日に廃止となった。
筆者は、田崎小・中学校へ通うときからほぼ毎日SLを朝な夕な見ていた。
SLが川西踏切に近づくとボーっと汽笛を鳴らすので、その音が強くて指で耳栓していた。
時に川西駅に止まることもあり、SLに手で触れたりして遊んでいた。
そのたびにSLのおじさんが「こら~あ、わいどま(お前たちゃ)あんね(危ない)が、あっち(向こう)へ行かんか」と怒鳴る。
学校へ通う広い畑は家一軒もなく菜の花畑(菜種油用)が続き、SLと菜の花は牧歌的でのどかな光景であった。
今年は戦後80年、昭和100年、個人的には写真歴56年、語ることは多くある。
大隅の自然、歴史研究
坂元二三夫