《戦争と平和 》
戦争のあったころのことを知ろう~垂水史談会30年記念講演
昭和20年8月5日の垂水空襲と垂水海軍航空隊
垂水史談会復活30年記念~戦争のあったころのことを知ろうが、令和6年8月4日、垂水市民館で開催され、垂水空襲と戦争体験講演があり、熱心に聞き入っていた。
写真=「昭和20年8月5日の垂水空襲と垂水海軍航空隊」の報告発表
垂水史談会の町田猛会長があいさつし、鹿屋市戦跡ガイドの小手川清隆大隅史談会会員が「昭和20年8月5日の垂水空襲と垂水海軍航空隊」の報告発表をスライドなどを使って詳しく伝えた。
小手川さんは、東京大空襲が昭和20年3月10日で、18日は米軍が沖縄上陸作戦を前にそれを阻害する九州の軍事基地を総攻撃、垂水でも海潟の造船所近くで約300戸が焼失…など説明。
鹿屋市花岡でも空襲があったが、体験者に話によると、焼夷弾の周りには半径1mくらいドロドロした油が落ちていた。シャーという音がしたが、それは油で、国防婦人会の消火訓練では、家に落ちた焼夷弾は外に投げ出せと言われていたが、とてもそんなことができるものではなかった。
花岡空襲のB25爆撃機は、垂水方面へ飛び去っていた。8月5日の垂水空襲の時の写真を示し、大隅半島では最大の空襲で、街の中心部のほとんどが4時間余りで消滅。
垂水には海軍航空隊や、海潟に木造船の造園所、新城には特攻艇震洋基地があった。
写真=会場からの質問
空襲体験者の話を紹介し、犠牲者は死者91人、負傷者62人、全焼家屋1966戸で、鹿屋市の633戸に比べると被害は大きかった…として米軍記録などの空襲のデータを示し、米軍は、垂水がジェット飛行機生産場所だと誤認していたのではないか…など話した。
また魚雷航跡監視台が浜平にあって、その痕跡がまだ残っていること。
垂水海軍航空隊壕が確認され、現存するひとまとまりの特殊地下壕としては九州最大級、大隅史談会で壕の保存活用について陳情書を提出したこと。その保存と活用を訴えていた。
会場からは、残存する戦争遺跡等の質問もあった。
赤崎雅仁氏による「満洲からの引き揚げ」
写真=「満洲からの引き揚げ」体験談語る赤崎氏(87)㊧
続いて垂水史談会の瀬角龍平事務局長の進行で、霧島市在住の赤崎雅仁氏による「満洲からの引き揚げ」と題する体験談を聞いた。
赤崎さんは、ソ連と満州国境に接し南は北朝鮮側である旧満州璋春(こんしゅん)で昭和11年に生まれ、戦前は国境の街として璋春駐屯隊、陸軍病院など多く軍事施設があった。
小学校のとき、38歳で父親は応召され、母と兄弟四人暮らしをていたが、日ソ不可侵条約を破棄したソ進軍の侵攻で100㌔くらいの延吉に避難。日本人小学校教室に収容された。
その後、日本の敗戦で、朝鮮人が8割いた地域で、日本人の住宅に入り込み、ソ連も入ってきて校舎の床下に押し込められた。床下だから女を出せとか言われなかった。
関東軍の兵隊が60万人いたと言われ、食糧事情が悪く璋春に帰ることを命じられ、数百人のグループに分散一週間かかって帰り着いたが、この間ソ連兵の襲撃を避けて、夜間に僕は妹を背中に両手には荷物を担げ険しい山道を歩き雨宿りをしながらの行軍。高梁など盗んでは飢えを凌いだ。
やっと璋春にたどり着くホテルに収容された。臨月近い母はソ連が持ち帰る豊富な資源物資など貨車に積み込む使役に狩り出された。僅かな食料を貰うだけの労働であった。
ホテルも追い出されお寺に収容、長屋にごろごろ寝るように生活。1月になると寒く、母は無事出産したが母乳が出ない為三日後に死亡、妹であったが最初の犠牲となった。毎日が死との隣り合わせ幼い子供達が命を奪われた。
ソ連軍と入れ替わって共産党の八路軍が進駐してきたが、軍被服工場のミシンエとして母は働き、17年引揚がはじまり、八路軍に帰国を申し出たが、技術者だからと聞く耳持たずだった。
みんな日本人が引き上げる中、100人くらいが残り、中国の人も朝鮮の人ミシンが踏めるようになり、どこでも行ってくれという。煙草工場に転職し、
この時は図椚にいた。しばらくして昭和25年6月に朝鮮戦争が始まった。
軍の施設はすべて奥地へ集団移動、長春の煙草工場に合併、日本人は10家族くらいしか残ってなかったが、戦争は2~3年続き、僕は手紙を直接運ぶ仕事があり、勉学の機会も無く働いていた。母は勤めていたが体調を崩し結核の病状は悪化、1ケ月の給料で1日分の高い薬しかなく、寝たきり骨と皮やせ細り僕たち兄弟を残して42歳の若さでこの世を去った。
28年に日本に帰ることになり、舞鶴に上陸。全国いたるところに引き上げ港があり、加治木にもあった。
660万人くらいの日本人が海外にいて、亡くなった人もいる中で帰ってきて叔父の家にお世話になった。
学歴がない中、中学校に入ったが結核にかかっており休み、弟といっしょになることもあって2年に編入、3年のところを1年で卒業、加治木の郵便局を受け入って36年間務めさせていただいた。
9月で88歳になります、家内が4年前に亡くなり一人暮らしですが、元気なのであちこり戦争を語り継ぐ会に参加し体験の話をしている。大分にも行ってきた…など語った。
瀬角さんからの質問、会場からの質問があり、平和の尊さを訴えていた。
垂水史談会の川崎あさ子副会長がお礼の言葉を述べ閉会となった。